スタートアップエコシステムと知財
【「第7回 IP BASE AWARD」スタートアップ支援者部門 奨励賞】suiP運営メンバー(佐々木純氏、市川茂氏、渡辺崇仁氏)インタビュー
社内に知財を語れる人がいない。“ひとり知財”を支える互助会「suiP」
第7回 IP BASE AWARD【スタートアップ支援者部門】奨励賞を受賞したsuiP(start-up intellectual Property、通称:スイップ)は、スタートアップやVCのインハウス知財人材で構成されるコミュニティーだ。今回、suiPが評価されたのは、同コミュニティーが「互助会」形式で情報共有を行い、スタートアップエコシステムにおける知財担当者のネットワーク形成に貢献している点だ。suiPの運営メンバーである株式会社アンドパッド 経営推進本部 知的財産部 IPアーキテクトの佐々木純氏、SB Intuitions株式会社 コーポレート部 弁理士の市川茂氏、セーフィー株式会社 開発本部 CTO室 知財グループGLの渡辺崇仁氏の3名に、スタートアップの知財担当者が直面する課題について話を聞いた。
suiPには75名のメンバーが参加。写真は運営メンバーのうちの3名
スタートアップには「知財文化」がない
大企業とスタートアップでは、知財担当者が置かれる前提が大きく異なる。大企業には、知財を管理する部門があり、発明提案や出願判断の仕組みがあり、知財を扱うための社内ルールもある。研究開発や事業部門の側にも、「新しい技術が生まれたら知財部に相談する」という一定の共通認識がある。
一方、スタートアップでは、そうした前提がほとんどない状態から始まる。経営層や事業部門にとって、知財担当者は「特許を出願するだけの人」と見られがちであり、知財を事業戦略や組織づくりにどう接続するのかまでは、十分にイメージされていない。
こうした環境のなか、“スタートアップに知財を浸透させる”ことを目的に活動を行っているのが、suiPだ。
スタートアップのインハウス知財責任者・担当者等により構成される同コミュニティーでは オンライン・オフラインで意見交換したり、互いの知見を共有したりしながら、それぞれのスタートアップの知財活動を活性化するとともに、特許庁をはじめとする関連組織と密に連携することで、スタートアップへの知財の浸透と活性化を目指している。
運営メンバーであるSB Intuitions株式会社の市川氏は、大企業からスタートアップに移った経験を踏まえ、スタートアップの経営層が「知財担当が何をする役割を持つのか」を十分に理解していないことがあると話す。
SB Intuitions株式会社 コーポレート部 弁理士
市川 茂(いちかわ・しげる)氏
2004年、早稲田大学大学院を修了。同年より、富士フイルムやキヤノンにて約10年間にわたりデジタルカメラの設計業務に従事する。2014年よりキヤノンの知的財産部へ異動し、知財分野でのキャリアをスタート。2020年からはスタートアップ企業の知財部を経て、2026年にSB Intuitions株式会社へ参画し、現職に至る。
「最初に入社したときは『知財をやってください』という形で入ったのですが、そもそも経営者側が『知財担当って何をしてくれるんだろう?』というケースもあります。そのため、お互いに『どういった業務をどこまでやるべきか』のすり合わせが非常に大事になります」
知財担当者を採用すれば、すぐに特許が取れて企業としての知財活動が始まるわけではない。むしろ、そこから始まるのは、社内に知財を理解してもらい、発明を掘り起こす仕組みをつくり、経営や事業の中で知財をどう使うのかを考えていく作業だ。スタートアップにおける1人目の知財担当者は、こうした「知財文化」をつくっていく役割を担っている。
“ひとり知財”は会社の中で孤立しやすい
知財文化が十分にない組織では、知財担当者は会社の中で孤立しやすい。社内に同じ専門性を持つ人がいないため、日々の判断を相談できる相手が限られるからだ。外部の特許事務所は権利化実務の相談先にはなるものの、社内事情を踏まえた経営判断や、組織づくりの悩みまでは任せられない。経営層に提案する際にも、専門用語のままでは伝わらず、知財を事業やリスク、投資対効果の言葉に翻訳する必要がある。
市川氏と同様にsuiPの運営メンバーを務める株式会社アンドパッドの佐々木氏は、大企業の知財部門とスタートアップの知財業務の違いを、野球のフィールドに例えて説明する。
株式会社アンドパッド 経営推進本部 知的財産部 IPアーキテクト
佐々木 純(ささき・じゅん)氏
慶應義塾大学理工学部を卒業し、2年間の非知財業務(Web開発)の後、都内特許事務所やNECの知財系グループ会社(NEPAS)にて約15年勤務。2017年にオムロンの知的財産センタに転職し、同社の主力事業である制御機器事業の知財マネージャのほか、IPランドスケープの推進にも関わる。2024年より現職にて知的財産部の立ち上げを推進。
「大企業では守備範囲が明確ですが、スタートアップではそこがハッキリとしていないことが多いです。『これも俺がボールを取りにいくべきかな?』という場面がめちゃくちゃあります。ともすると、これまで自分が『知財の仕事』と認識していなかったような業務まで任されたりもします」
1人目の知財担当者には、出願や権利化だけでなく、職務発明規程の整備、報奨制度の設計、社内表彰、知財リテラシー向上のための情報発信、経営層への提案など、幅広い業務が降ってくる。しかも、多くの場合、それらを1人で判断し、進めなければならない。
同じくsuiPの運営を担うセーフィー株式会社の渡辺氏も、スタートアップで1人目の知財担当になると、大企業とは求められる動き方が大きく変わると話す。
セーフィー株式会社 開発本部 CTO室 知財グループGL
渡辺 崇仁(わたなべ・たかひと)氏
2006年、電気通信大学大学院修了(学部では電子系、大学院では情報系を専攻)。同年、キヤノン株式会社に入社し、知的財産本部に配属。特許の出願や権利化、クリアランス業務などに従事する。2014年からの知的財産研究所への出向を経て、帰任後は役員サポート、対外窓口、本部内調整などの幅広い業務を担う。2022年にセーフィー株式会社へ参画し、知財部門の立ち上げを牽引。現在は同社知財グループのグループリーダー(GL)として、知財業務全般を統括している。
「ゼロベースで自分の頭で考え、いろんな人とコミュニケーションを取って設計していく動きが求められます。これは経験があるかないかというより、そうした環境に向いているかという性格的な部分(パーソナリティ)が大きいと感じます。そこを理解しないまま大企業と同じ感覚で行ってしまうと、ズレが生じて詰まってしまうのではないかと思います」
スタートアップの知財担当者は、専門職でありながら、社内の翻訳者であり、仕組みづくりの担当者でもある。その負荷を1人で抱えやすいことが、“ひとり知財”の孤独につながっている。
知財は成果が見えにくい
知財文化が十分にないスタートアップでは、「なぜ今、知財に人や予算を使うのか」を社内に説明し続ける必要がある。そこで壁になるのが、知財活動の成果が短期的には見えにくいという点だ。
特許を出願しても、すぐに売上が増えるわけではない。権利化までには時間がかかり、仮に特許を取得できたとしても、それがプロダクトの成長や競争優位にどれだけ貢献したのかを定量的に示すのは難しい。
さらに、知財によってリスクを回避できていたとしても、その成果は多くの場合、「問題が起きなかった」という形でしか現れない。
渡辺氏は、知財活動の価値を経営層に理解してもらうことには、構造的な難しさがあると話す。
「知財活動というものは、お金をかければすぐに成果が出る性質のものではありません。しかも、知財で守ったからプロダクトが売れたのかどうかを検証することは非常に難しい」
スタートアップでは、限られた予算と人員を、採用、開発、営業、マーケティングなどに配分しなければならない。その中で、短期的な効果が見えにくい知財活動に投資するには、経営層にその必要性を理解してもらう必要がある。
しかし実際には、競合とのトラブルや大企業から差止請求が発生するなど、具体的な問題が起きて初めて、知財の重要性が意識されることも少なくない。知財担当者にとっては、問題が起きない状態こそが望ましい。だが、問題が起きないことの価値は評価されにくい。
深刻な問題が起きる前に手を打つ活動は、平時には必要性が伝わりにくい。知財活動にも、それに近い難しさがある。
知財活動は「特許を出願すること」だけではない
特許を出願するだけなら、外部の特許事務所に依頼することもできる。では、スタートアップがあえてインハウスの知財担当者を置く意味はどこにあるのか。
佐々木氏は、その役割を「知財活動を高度化・戦略化していくこと」だと語る。
「特許出願などの活動を『高度化・戦略化』していくことです。そのためには、事業戦略や経営戦略と知財活動の方向性を整合させていく必要があり、経営層への議論や提案が必須になります」
知財は、訴訟や警告のためだけに使うものではない。特許取得をプレスリリースで発信すれば、広報や営業の材料になる。投資家向けのエクイティーストーリーに組み込むこともできる。共同研究や協業の実績を示す証拠として活用される場合もある。
さらに、社内の発明意識を高めるための表彰制度や、職務発明規程、報奨金制度の設計も知財活動の一部だ。実際に佐々木氏が勤めるアンドパッドでは、社内で発明を表彰する「ANDPAD IP AWARD」を開催し、経営陣を巻き込みながら、社員に知財への関心を持ってもらう取り組みを進めている。
スタートアップの知財担当者は、特許を「守るための武器」としてだけではなく、経営資源としてどう活用するかを考えなければならない。
ただし、こうした役割を1人で担うのは簡単ではない。出願、制度設計、社内啓発、経営層への説明、ツール選定、海外実務など、判断すべき範囲は広い。事業フェーズや予算感、経営層の知財理解も会社ごとに異なるため、一般論だけでは答えが出ない場面も多い。
そこで支えになるのが、同じ立場で悩む知財担当者同士のつながりだ。suiPでは、メンバーがそれぞれの現場で得た経験を持ち寄り、日々の判断を支え合っている。
suiPは、情報だけでなく安心感を提供する
suiPの価値は、単なる勉強会や情報共有にとどまらない。1人で判断しなければならない知財担当者にとって、同じ立場の人に相談できること自体が大きな支えになる。
まず実務面では、現場に近い情報を得られることが大きい。 市川氏は、外国出願などの進め方を検討する際、suiPのSlack上で尋ねると、実践的な回答が返ってくると話す。
「『こういうケースのとき、どう対応されていますか?』と質問を投げると、一瞬で『うちの会社ではこうやりましたよ』『こういうIPCを付けると審査がスムーズですよ』といった実践的なアドバイスが返ってきます」
特許事務所に聞けば費用が発生することもある。ウェブサイトやAIで検索しても、現場の細かな判断は見つからない。特に海外実務や費用感、ツール選定のようなテーマは、実務経験者のアドバイスこそが何よりの判断材料になる。
suiPでは、「米国への出願でこの金額は高いのか」「この代理人はどうか」「このツールはスタートアップの規模感に合うのか」といった、通常は聞きにくい相談もできる。そこには、同じような予算感、同じような組織規模で知財活動を進めている当事者同士だからこその実感がある。
一方で、suiPの価値は実務情報だけではない。 渡辺氏は、suiPの価値について「愚痴や傷の舐め合いも大事」と表現する。“ひとり知財”は、社内で悩みを話しても理解されにくい。特許管理用のExcelやGoogleスプレッドシートを工夫しても、それを社内で褒めてくれる相手はいない。
ささいなことに思えるかもしれないが、自分の工夫を理解し、面白がってくれる相手がいることは、日々の業務を続けるうえで大きな支えになる。こうした孤独感の共有から、suiPの原型となる交流は始まったという。
有用な情報を得られることと、「うちもそうだよ」と言ってもらえる安心感。その両方があるからこそ、suiPはスタートアップの知財担当者にとって、実務と心理の両面を支える場になっている。
suiPでは年齢や仕事の立場関係なく、相談できる関係性が築かれているという
コミュニティーが意思決定を後押しする
suiPで交わされる情報は、実際の意思決定にも影響している。
例えば、特許事務所の選定だ。スタートアップでは、どの代理人に依頼するかが知財活動の質やスピードを大きく左右するが、会社の規模や事業領域、予算感に合う事務所を、自社だけで見極めるのは簡単ではない。suiPのメンバーに相談して、相性のよい特許事務所を紹介してもらい、代理人選びの参考にすることもあるそうだ。
同じように、特許検索・管理ツールの導入、知財活動のKPI設計、社内制度の設計なども、コミュニティー内でよく話題に上るテーマだ。大企業向けの高額な知財ツールは、スタートアップには導入しにくい。そこで、低コストかつ仕様がシンプルなツールや、社内で契約している生成AIを活用した工夫、自作の管理ツールなどの情報が共有される。
市川氏は、suiPのメンバーが複数人でベンダーのデモ説明を受けることもあると話す。
「1対1の営業だと気まずいですが、同じ立場のメンバーと一緒にベンダーの説明を受けることで、 気兼ねなく実利的な質問ができるのもメリットですね」
知財活動に正解はひとつではない。だからこそ、自社に近い規模やフェーズのスタートアップが実際にどう判断したかという先行例が「背中を押す」役割を果たす。自分の考えが大きく外れていないことを確認できれば、経営層に提案する際の自信にもつながる。
公的支援機関とは異なる、suiPならではの強み
スタートアップ向けの知財支援は、特許庁のIPAS(知財アクセラレーションプログラム)などを通じて、この数年で広がってきた。知財人材が社内にいない企業に対し、知財の重要性を伝え、最低限の出願や戦略づくりを支援する取り組みは進んでいる。
一方で、すでに知財担当者が社内にいるスタートアップが直面する悩みは、より実務的で、生々しい。どの代理人を選ぶべきか。どの程度のリスクなら取れるのか。経営層をどう巻き込むのか。社内制度をどこまで整えるのか。こうした相談は、一般論だけでは解決しにくい。
佐々木氏は、知財人材がすでに社内にいるスタートアップに対する支援は、まだ十分ではないと話す。
「我々のように知財人材がすでに社内に『いる』レイターステージのスタートアップに対する、さらにスケールするための施策や外国への出願にかかるコストなどの課題はいまだ残っていると感じます。その課題について悩んだときに解決の一助となりうるのがsuiPのような民間コミュニティーの横のつながりです」
公的支援が裾野を広げてきた一方で、実際に社内で知財活動を運用し、高度化していく段階では、当事者同士の横のつながりも重要になる。
市川氏は、suiPの強みとして、利害関係がないことを挙げる。
「メンバー同士が対等であるという安心感は非常に大きいです。仕事を通じて、特許事務所の弁理士の先生とも親しくなりますが、どうしてもクライアントと代理人という立場上、気兼ねなく何でも相談するわけにはいきませんから」
INPITなどの公的支援機関の相談窓口もあるが、回答は一般論や教科書的な内容にとどまることも少なくない。現場で判断に迷う領域や、社内事情を踏まえた意思決定の感覚は、同じ立場にいる当事者同士だからこそ共有しやすい。
公的支援機関が知財活動の裾野を広げる役割を担う一方で、suiPは現場で知財活動を進める当事者同士が実践知を共有する場になっている。
「スタートアップ知財」というキャリアを育てる
今後のsuiPに期待される役割のひとつが、「スタートアップの知財担当」というキャリアの認知を広げていくことだ。これまで知財人材のキャリアは、大企業の知財部門や特許事務所が中心だった。スタートアップに知財担当者が入る流れはまだ新しく、キャリアとしての将来像が見えにくい面がある。
佐々木氏は、若い知財人材にとって、スタートアップは大きな経験を積める場だと話す。
「能力の高い20代・30代の若い知財人材こそ、早い段階でスタートアップの“ひとり知財”や2人目、3人目の知財人材として経験を積む価値があると思います。大企業では業務が細分化されているため、知財活動の全体像を担う機会は限られますが、スタートアップでは経営戦略や組織づくりまで含めて関わることができます。転職してみて、その意義を強く感じました」
もちろん、スタートアップでは知財以外の業務まで担うことも多く、専門性が薄れる不安もある。それでも、自分の強みを持ち、足りない部分をsuiPのようなコミュニティーで補えれば、若い知財人材でもスタートアップの知財活動を立ち上げていくことはできるだろう。
市川氏は、スタートアップにとって、知財は特許や商標だけに限らないと語る。
「資産のないスタートアップにとって、価値のある無形資産はすべて『知財』です。知財には特許や商標だけでなく多様な価値があり、特許以外の形でも会社に貢献できるんだというインフラとしての土台をsuiPが示していければと思います」
技術、ブランド、データ、ノウハウ、協業関係など、スタートアップの価値を支える無形資産は多い。それらをどう守り、どう活用するかは、今後ますます重要になる。だからこそ経営層やVCにも会社の価値をつくる活動として理解してもらう必要がある。
一方でsuiPは、会社組織のように明確な数値目標を追う団体ではない。渡辺氏は、コミュニティーのあり方について、あえて緩やかでよいのではないかと話す。
「知財の浸透というミッションは根底にありつつも、いろんな人が集まってワイワイ楽しく情報交換をして、気づいたらお互いに知財活動の打率が上がっていた、という緩やかさで良いと思っています」
suiPのSlackには現在、75人ほどのメンバーが参加している。大半は1社1人の知財担当者であり、それぞれが自社の現場で試行錯誤しながら、横のつながりを通じて知見を共有している。
その先に見据えるのは、個々の知財担当者を支えることにとどまらない。スタートアップの経営層、VC、エコシステム全体に対して、知財が当然のように語られる状態をつくることだ。

