スタートアップエコシステムと知財
Mammoth Biosciences 最高事業責任者 ピーター・ネル氏インタビュー
「CRISPRは簡単に扱えるため、差別化が重要」ノーベル賞受賞者が共同設立したスタートアップに聞く技術と知財
2020年のノーベル化学賞を受賞した「CRISPR/Cas9」(クリスパー・キャスナイン)はゲノム編集の主要ツールとして知られている。創薬や治療などの医療応用で世界中の注目を集め、同技術で多くのスタートアップが誕生している。中でも、ノーベル賞を受賞したジェニファー・ダウドナ氏が創業者として名を連ね注目を集める企業であるMammoth Biosciencesの最高事業責任者 ピーター・ネル氏に、大野総合法律事務所 パートナーの弁理士・博士(医学)である森田裕氏が話を伺った。
Mammoth Biosciences 最高事業責任者 治療部門主任 ピーター・ネル(Peter Nell)氏:
バイオサイエンス業界で治験部門や事業開発部門の役職を歴任。2016年にCasebia Tx(Bayer HealthCareとCRISPR Therapeuticsの合弁会社)を共同創業した後、Mammoth Biosciencesの最高事業責任者および治療部門主任(Head of Therapeutics)に就任。CRISPR技術を活用した創薬の開発を主導するほか、遺伝子治療やゲノム編集に関する講演などへも多数登壇する。
聞き手:大野総合法律事務所 パートナー 弁理士 博士(医学) 森田 裕氏
大野総合法律事務所にて知財訴訟および権利化に携わる。東京大学および筑波大学の橋渡し拠点の知財顧問を務めると共に日本発イノベーションの創出支援のためアカデミアやスタートアップの支援に力を入れている。平成28年及び30年には日本弁理士会バイオ・ライフサイエンス委員会委員長を務めた。有益な知財戦略について日経バイオテクオンライン「森田弁理士の特許“攻防”戦略」で広めている。
応用領域の広いCRISPR/Casシステムで遺伝子治療や診断を効率化
PCRに代わるCOVID-19テストキットの開発を目指す
「CRISPR」(Clustered Regularly Interspaced Short Palindromic Repeats)は、ウイルスなど外敵の侵入から身を守るための免疫系として働くDNA領域。CRISPRから生み出されるRNA分子を活用してウイルスなどの外敵のDNAに配列特異的に結合し、切断する酵素がCasヌクレアーゼである。Casヌクレアーゼ群を活用したゲノム編集技術であるCRISPR/Casシステムは、創薬や治療などの医療応用で世界中の注目を集め、多くのスタートアップが誕生している。Mammoth Biosciencesも、そのひとつだ。
Mammoth Biosciencesは、CRISPRのCas9酵素を発見した研究者のひとりとしてノーベル化学賞受賞者に名を連ねるカリフォルニア大学バークレー校教授ジェニファー・ダウドナ(Jennifer Doudna)氏が共同創業したスタートアップだ。2020年には4,500万ドル(約49億円)の大型の資金調達に成功。激化するCRISPR/Cas市場で存在感を見せている。
同社の事業は、治療分野と診断ツールの2つに大きく分けられる。
治療分野では、主に遺伝子疾患における新しい治療法の開発に取り組んでいる。将来的には遺伝子疾患だけでなく、発症リスク抑制における評価やリスク遺伝子の評価などにも展開できると、Mammoth Biosciencesの最高事業責任者および治療部門主任のピーター・ネル氏は述べる。
また診断ツールでは、血液や唾液、尿などから遺伝物質を検出する臨床現場即時検査(Point of care testing:POCT)および数百万レベルの大量の薬剤候補集団から望む作用を持つものを高速に選別するハイスループットスクリーニング(High Throughput Screening:HTS)の開発を進めている。中でも注力するプロジェクトが、PCRに代わるCOVID-19テストキットの開発だ。大規模かつ多様なメタゲノミクス・データベースに基づいて、新規のCRISPRシステムの発見を狙う。
「開発中のCRISPRテストキットでは、15分から20分以内に遺伝子配列を読み取ることができ、COVID-19被験者のサンプルに含まれる疾患関連配列を特定するHTSの一端が担える。感染を検出するうえで必要なウイルス量も、ごく少量で十分。また弊社では、妊娠検査に似たテストキット開発にも取り組んでいる。誰もが自分の鼻の粘膜や唾液をぬぐって、20分程度でウイルス感染の有無を判定できる使い捨てキットを提供できるかもしれない。しかもガイドRNAを変更すれば、他の感染症のための新しい検査にも対応できる」(ネル氏)
すでに英製薬会社グラクソ・スミスクライン(GlaxoSmithKline Consumer Healthcare)と共同開発を始めていると明かすネル氏は、バークレー校の知財をベースにCRISPR/CasシステムおよびガイドRNAの最適化に関する特許ポートフォリオを構築。特許出願も行っていると話す。
Mammoth Biosciencesが扱うのは、CRISPR/Cas14やCasΦ(ファイ)であり、Cas9ではない。Cas9に関わるカリフォルニア大学と米ブロード研究所との特許紛争や、それに関連した各国特許制度の異なる解釈に振り回されたくないという本音もあるようだ。
「他社の知的所有権に縛られることなく、発明に関するアクションを起こせるかどうか、いわゆるFTO(Freedom to Operate)は、今後の事業継続やパートナーシップとも絡む重要な議題だ。これについて、CRISPR/CasシステムはCas9の知財から完全に切り離されたものなので、実用化に向けての障害もない」
さらに、同社で使用されているCRISPRシステム、例えばCas14やCasΦには、いくつかの利点があるとネル氏は言う。「Cas14とCasΦは、Cas9よりも分化したメカニズムで機能するV型CRISPR-Casエフェクタータンパク質です。SpCas9のアミノ酸が1,380であるのに対し、Cas14は400~700、CasΦは750~850程度と、Cas9よりもはるかに小さい特徴をもつ。これにより、導入できるCasヌクレアーゼの大きさに制限がある場合でもデリバリー方法が可能になり、Cas9が適さないような新しい治療法につながる可能性があります」
もちろん、基本的な知財はバークレー校が所有する。そのため、同社の特許弁護士や研究者たちはバークレー校の特許弁護士と緊密に連携し、権利化方針に従って実務に落とし込み、必要な改善を実施。新しい発見については、新たに特許出願してポートフォリオの強化を図っている。
Mammoth Biosciencesにおいて、特許弁護士の存在は大きいという。現在、同社では特許弁護士をひとり抱えており、米国では外部の法律事務所と、欧州では専門会社と提携しながら法務処理をしている。CRISPR分野の特許を扱う法律事務所にいた人物で、CRISPR全般やCRISPR/Cas9について詳しいことが決め手だったという。
CRISPR技術は非常に簡単に扱えるため、差別化ポイントが重要
投資家やVC、大手企業との関係性も、スタートアップが飛躍する上で見極めが必要な部分だ。投資家やVCの存在について、ネル氏は「FTOと差別化部分をはっきり提示すること」が相手の投資判断で有効に働くと述べる。
「遺伝子関連市場の特許状況は、最初に上市することがより重要であり、特に希少疾患ではジェネリックとの競争はそれほど想定していない。たとえば低分子治療であれば、特許が切れる数年前からジェネリック医薬品の開発が始まり、存続期間が終了した瞬間、全社が全速力で市場展開にかかる。だがCRISPRの場合、特許が切れた後でも、製造上の課題や規制上のプロセスに高い要求があるため、あまり競争がないのではないかと推測している」(ネル氏)
ネル氏はそう分析しながらも、「誰もがFTOの不安定さを知っている。シードステージやシリーズAでは特許を公開していないところもあり、他の特許に妨害される恐れのあるまま出願した場合、特許が公開されるまでの期間である18ヶ月以内に公開されてしまう可能性もある」と指摘。そうした不安を払拭するために、VCなどはデューデリジェンスを通じて特許の保護状況やFTOをチェックするため、ネル氏らはその際に情報を提示できるよう、外部含めて専門家の意見を仰ぎ、差別化ポイントなどを整理していると話す。
特に、差別化ポイントが重要だと同氏は断言する。「CRISPR技術は非常に簡単に扱えるため、IPを持っていなくても、とりあえず採用しようという動きがある。Cas9の現状を見ればわかると思う。その意味で、IPの保護はとても重要だが、本当の価値は差別化を図れるかどうかにあると考える」(ネル氏)
また、大手企業などの他社との提携も、独自の対応が求められる。
現在同社は前述のとおり、グラクソ・スミスクラインと診断ツールの共同開発を進めるほか、ゲノム研究支援や幅広い特許ライセンスを管理する英Horizon Discovery(2020年12月に米Perkin Elmerが買収)と次世代の遺伝子改変CHO細胞株の開発における編集技術提供などで連携している。バークレー校から基盤となる知的財産を独占的にライセンス供与され、独自の改良や新しいシステム開発を行っているが、製薬会社やバイオテクノロジー企業との提携も検討しており、このような潜在的なパートナーシップにおいてはプロジェクト譲渡と、一方でプロジェクトを独自に商業化することの価値を維持することでのバランスが非常に重要だとネル氏は考える。
「どの特許を継続するか、どの国で資産を保護するかを決めることは重要な問題であり、時には関係者間で利害が異なることもあります」
ネル氏はそう述べながら、「たとえばどこかの国で申請した特許を維持するかどうか判断が迫られ、私たちは不要と思っても先方が維持すべきと主張したとする。このとき、維持コストをカバーすると提案があれば、維持の方向で再検討することも可能だ」とし、互いに交渉しながら落としどころを探ることも大切と指摘した。
どんなに困難な状況が発生しても、他企業とパートナーシップを組むことは良いことだとネル氏は捉える。
「パートナーシップを組むことは、関係性の複雑さや手続きの煩雑さを生む。たとえば、提携先と新しい知財を開発した場合、それを自社プロジェクトで使用したいと思っても、提携先の取引関係や提携の相手に弊社の競合他社がいると、難しい手続きが発生するだろう。それでも、これまでと異なる領域に進出する場合、大手パートナーの専門知識が加わることで、プロジェクトを前進させるのに役立つと考えられています。製造や規制におけるプロセスが良い例です」
あらゆる可能性を模索
Mammoth Biosciencesはこのほか、DARPA(米国防高等研究計画局)の「Detect It with Gene Editing Technologies」(超多重検出が可能な検査キットの開発を目指す)プログラムに参加し、1回で1,000件以上を同時検査するためのガイドRNAやプローブを開発するなど、研究にも余念がない。
「私たちのチームは、極めて多様なメタゲノム・データベースを適用して、新たなCRISPRタンパク質を探している。このデータベースは、氷河から火山、廃水から湖、人間から動物まで、あらゆる種類の特性を持つさまざまなソースから得られたサンプルで構築されている」(ネル氏)
この研究には、同社の科学顧問委員会の議長を務め、バークレー校の教授であり、Innovative Genomics Instituteの共同設立者でもあるダウドナ博士も従事している。
従業員に対しても、ストックオプションや特別な成果に対するスポットボーナス、特許出願時のボーナス、保険や確定拠出年金(401K)、年金基金、さらには「シリコンバレーのテック企業によくあるが、バイオテック業界では珍しい」無料ランチを提供するなど、働きたい環境作りにも真剣に取り組んでいる。ヴェスティング(Vesting※)についても、よく使われるベンチマークなどを参考にしつつ、一般的に従業員へ付与される株数を決定し、ステージが進むごとに評価を見直すなど柔軟に対応しているという。
※Vesting:ストックオプションを行使する時期についての制限を設けること。最初の権利(ストックオプションの25%など)を行使できるのは所属から1年後。約3~5年ですべての権利が行使できるのが一般的。
今後、M&AやIPOなど、どのようなイグジット戦略を展開するかは未確定とネル氏は言う。
「一般論だが、現在CRISPR市場はとても好調で、資金調達には絶好のタイミングにあると実感している。調達しやすく価値変動幅も広い現状だが、一方で投資家を納得させるためには、意味のあるデータやプロジェクト、カタリスト(catalysts)と呼ばれる、将来的に達成可能で会社に付加価値を与えるマイルストーンを持つこととのバランスをとる必要がある。従来、企業が株式を公開するのは、臨床開発を行っているときだけだったが、近年、この状況は変わりつつある。
思い切ってIPOするのも手だと思う。実際、臨床試験の2年前の段階にあるスタートアップがIPOを進めたケースもある。今のところ、株式会社になると株主への報告義務が発生する。まだ初期ステージにも関わらず情報を公開するのは、競合他社にも情報を公開することになるので、よく考えなければならない。また、投資家を誤解させるような間違った発言では、法的措置が取られる可能性もありうる」
日本のスタートアップ市場の変化に期待
ネル氏は、前職のCasebia在籍時に神戸大学を訪れ、株式会社バイオパレットのグループと話をしたことを特に覚えているという。「バイオパレットは、塩基編集の分野で非常に優れた技術を開発し、それを農業に応用していたが、一方で同様の技術を持つ米Beam Therapeutics社とクロスライセンスを結び、治療薬への応用を進めている。これは、日本におけるCRISPR分野での最先端研究の一例に過ぎない」と語る。
最後に、ネル氏は自身の出自と比較しつつ、日本のスタートアップ企業市場が今以上に花開くことへ期待を寄せた。
「米国のスタートアップは、リスクをとる。創業者が失敗しても、すぐに次へと目を向け、フットワーク軽く行動に移す。でも、少なくとも過去のドイツは違った。私はドイツ出身だが、ドイツでは失敗すると落伍者の判が押されるため、みんなリスクを避けがちだ。これは、ドイツ人と日本人の共通点であるように思う。だが、ドイツでもそんな状況が変化しつつあり、スタートアップも増えている。日本でも同様の変化が起きているだろう。日本には素晴らしい研究が多い。ぜひスタートアップには、柔軟かつスピード良く意思決定し、リスクを恐れずチャレンジしていってほしい。リスクを取らなければ、ブレイクスルーを起こすことはできない」(ネル氏)